なないろのあめ

七色の魔法の杖を持って、この世界に花を咲かせよう。歓びの歌を響かせよう。

がんばるのをやめて、遊ぶこと

plaza.rakuten.co.jp


先週の土日にキャンプに参加させてもらった篠さんのブログをリンクしました。
いやー、楽しかった!

 

キャンプで朝ごはんを食べていたら、子ども達が太鼓を叩いて遊び始めて、そうしたら篠さんが朝ごはんをその場で放り投げて子ども達のところに走って行って、率先して一緒に太鼓を叩き始めたのには笑ってしまった。

私も負けてはいられないと思って、乱入して太鼓を叩いた。

そうしたら、三歳の子も小学生も大人もみんなが集まってきて、勝手にドラムや打楽器のセッションが始まった!
面白かったなー。敷きっぱなしの布団の上で、朝ごはんほっぽり投げて、みんな好き勝手に打楽器鳴らしたり、踊ったり、声出したりしてる。

ほかの場ではお行儀が悪いと否定されることも、ここでは否定されない。

むしろ、子供が突発的にやったことに対して、それに乗って、オトナも楽しんじゃおうという姿勢。

そういう経験をしているかどうかで、オトナになってからの在り方が変わってくるような気がする。
こういう経験のある子どもは、自分の感覚を否定しないで、自分の感覚を信じることができるのではないか。

篠さんは、このキャンプは誰も命令や司令をしない場だという。
遊びたかったら遊べばいいし、料理を作りたければ作ればいいし、寝たかったら寝ていればいい。
みんなが遊んでいて、ご飯がなかったらただそれだけのことでたいしたことではない、と。
(でも、晩御飯はみんなが勝手に炭をおこして各自作ったご飯がならんで、それをみんなで分けて、食べ切れなかったほどだったけど!)

これ、先日うかがった藤田一照さんの話と非常に共通していることに、びっくりした。

一照さんはこう言う。
仏陀は、苦行や、型があって外側に正解を求める修行方法に疑問を抱いて、それこそが苦しみの源だとして、そのパラダイムの外に出たのだ、と。

頑張ることや努力することをやめて、無になろうと努力するのをやめて、何かを追いかけるのをやめて、今起きていることをそのまま迎えいれること。

自我を使って、自他を分けて、自分だけをなんとかしようとするのではなく、自分を開いていく。
自分をコントロールするのをやめて、ただ、今にくつろぐ。

エンジョイすること。
遊ぶこと。

その中に、その瞬間に、すべての事象にあらゆるものに、神は遍満(浸透)している。

いい人をやめる

今日思ったこと。
「いい人」をやめたら、ほとんどの問題が解決する。

嫌われてもいいと思ったら、なんでもできる。
(人を傷つけるということでなく、相手の期待や枠組みで生きるのをやめるということ)

「いい人」でありたいという思いが、逆に人を裁き、また本音を言わないというコミュニケーション不全をもたらしている。

初・毒舌

「良いとか悪いとか、快・不快などのどちらかに振り分けようとするその考え・感覚から「解き放たれる」のが解放だとお考えください。 」ということを、私の教師的な立場の人が書いていて、イエスと思った。

市民運動系の人はしばしば、善悪の絶対的な価値観を持っており、そのことに疑問も抱かず、自分と異なる立場の人には共感もせず、それを正しいと信じ込み、でも自分は善なる人だと信じ込んでいる。
これほどの暴力性はないのだが…。

助けること、人のための何かをすることがいいことだと思い込んでいる人も怖いなと思う。
それは本当に相手のためなのではなく、自分の表現としてやっていると、ある人が言っていたが、それにもイエス

あと、ヒーラーなどを名乗っている人は、愛だとか感謝だとか光だとかそういう言葉をしばしば陶酔的に語っているが、そういう二元論的な考え方こそが、全くヒーリング的ではないと感じる。

久しぶりの毒舌。
っていうか、このブログでは、初毒舌?

かけられた魔法を解くために

まとまった継続した記事を書いている時間がなかなか取れないのだけれども、思いついたことを少しずつでも書いていきたいと思う。

さっき、ふと、思い出したこと。

私は長い間、ずっと、自分は幸せになってはいけないと思っていた。
そもそも、幸せとはいったいどんな状態なのかも想像がつかなかったし。(この点は、いまでもはっきりとわかっているとは言えない。苦笑)

幸せになってはいけないと思っている人間が、幸せになれるわけがない。

だからまず、自分は幸せになってもいいのだと、自分に許可を与えることが最初の一歩なのだと思う。
これができていない人、結構、多いんじゃないのかな。


「幸せになってはいけない」

なんでそう思ったかというと、いつも思っていたのは、世界の裏側には貧困も飢餓もあるのに、自分だけ幸せになってはならないという思いだった。
いま思うと、私が幸せだろうが不幸だろうが、貧困や飢餓に1ミリも影響を与えないわけだが(苦笑)、自分だけ楽しそうにしていてはいけないと思ったのだ。

そう思った背景には、やはり、生育歴における刷り込みがあったと思う。

私は、両親からしばしば「親の苦労がわからない」とか「遊んでばかりいてはダメだ」とか「変わっている子だ」とか、そんな言葉を日常茶飯事に投げかけられていた。
また、母親はしばしばため息をつきながら「歳をとると何一ついいことがない」と言っていた。

そのうち、自分の存在自体が、親を不幸にしていると思うようになったのだと思う。
自分は親を不幸にしている人間だ。
親の期待には応えられない。(だけど親の期待に応えていたら本当の自分を殺すことになる)

いずれにしても、親を不幸にしている自分は、幸せになってはいけない。

こんな風に理路整然と考えてはいなかったけれど、こういう刷り込みが潜在意識というか、無意識下に刷り込まれたのではないだろうか。

これは「呪い」だと思う。
言葉は人に呪いをかける。

その呪いとの格闘こそが、自分の生きにくさとの格闘だったとも言える。

そして、そのうち私は本当に魔法を習った。
セラピーだとかコーチングだとか瞑想だとか、呪いを解く魔法を。

それについて少しずつ丁寧に書いていきたいんだけど、もったいつけてるみたいでごめんねー。
少しずつ書いていきます。


みどりんという本当の魔法使いから「魔法」も習ったんだけど(笑)、そのお話もまた後ほど。

人も自分も変えるのではなく

相手を変えるのではなく、自分を変える。

セラピューティックな言説として、しばしばそのように言われるが、私のスタンスはそれとは違っている。

 


自分も相手(他人)も完全だ。互いの最高最善を生きている。

だから、自分や人を矯正するのではなく、自分が作りたい世界、自分が作りたい幸せ、自分が作りたい社会、自分が作りたい人生を、今ここから作り始める。

そのために何ができるか。

その小さな一歩から始める。

 


矯正ではなく、創造。

そこには無限の可能性がある。

 


だが、矯正には救いがない。

 


今あるものを、否定し、批判し、裁き、変えようとするところには、救いがない。

対象が、相手であれ、自分であれ。

 


そうではなく、自分には自分の望む世界を作る力がある。(実際に、そうだし)

人も自分も変えなくても。

 


創造者として、生きる。

 


こういうことをいうと、スピ系とか宗教っぽいとか言われるからあまり言わないけど(いや、よく言ってるけど。笑)、これはそんなに特別なことではない。

 


新しい商品も幸せな家庭も、それを創造したいと思わなければ生まれない。

 


否定や批判をしていて、何かを正そうとした時には、そう思っている人間のちっちぇえ規範があるだけで、それを超えることはない。

 


その人達が、世界や社会を変えたことはない。

夏バテでした

6月18日に、生きにくかった自分がどうやって生きるのが楽になったのかを、このブログに書き綴っていくと書きながら、もう2ヶ月近くになりますが全く書けていません。苦笑

40度近い暑さになると、まったくやる気がなくなるということを実感。(苦笑)
しかも、自分のイベントが色々重なって。(言い訳)

色々ひと段落したし、暑さもひと段落したので、少しずつ書き始めていきたいなーとは思っていますが、無理せずに…。


瞑想も滞りがち。
(毎日1時間の瞑想をとるのが、自分にとってはいいペースです。)

「オトナの対話型絵画鑑賞」へのお誘い(2018年8月5日)

「オトナの対話型絵画鑑賞」へのお誘い。
     

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8月5日(日)17時~18時
西東京市市民会館・5階多目的室「松」
参加費500円

申込:shimanabukai*gmail.com

(*を@に変えてお申し込みください)

 

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みなさん、対話型絵画鑑賞ってご存知ですか?
       
対話型絵画鑑賞とは?
下記のブログにわかりやすく買いてあったので、その一部を引用させていただきます。
      
「こんなふうに鑑賞します。
まずは目の前の作品をじっくりと見ます→作品の中の色やかたち、その他いろいろなところから見つけたこと、思いついたこと、想像してみたことを、ことばにして話してみます→他の方が話すことばにもじっくりと耳を傾けます→自分と同じ感想に共感を感じたり、自分とは違う感想や意見からは、作品の新しい見方や思いもよらなかった面白さを知って、作品の理解が深まります」
http://www.watv.ne.jp/~ashi-bi/2016taiwagatakansyo.html
       


美術館に行って絵画を見る時、なんか自由に鑑賞できていないと感じることはありませんか。
この作品、どういう風にみればいいのだろう?的に、思わず「正解」を探してしまうような。
学校教育の中でいつもいつも正解や正しい答えを出すことを求められてきて、美術の鑑賞の仕方でさえ、正しい答えがあるような気がしてしまい、自由に鑑賞できなくなってしまっている。(私はそうでした)
えらい立派な有名な批評家がその絵について何か語っていたら、それ以外の解釈や鑑賞をしてはいけないと思ってしまうような…。
       
本来、表現や美術や芸術というのは、とても自由でクリエイティブなものであるはずなのに、型にはまった不自由なものになってしまう…。
鑑賞方法がそうであれば、おのずと自分の創造力も貧困になっていくわけで…。
     
しかし
しかし
しかし
     
そうではない絵画の鑑賞方法が、ここ数年、一部の人たちの中で広まりつつあります。
      
それぞれの人がそれぞれのやり方で、本当に自由に絵画を鑑賞し、さらにいろんな人の声を聴きながらみんなで絵についての想像をふくらましていく。
そこでは、何を感じても、絵をどう見ても、何を言っても否定されない。
否定されるどころか、自分の発想や感じ方をもとにみんながさらに想像力をふくらませて、対話がどんどん展開していく。
また自分も、人の言葉を聞きながら、それに触発されてさらに絵に対する想像力が広がっていく。
     
体験した方ならわかると思いますが、本当に自由に絵画を鑑賞するとはこういうことなのか!と。
絵画の片隅にある、もしかしたらその絵画のテーマとはまったく関係ないかもしれない脇役的な何かに着目して語る人もいれば、色彩に目を向ける人もいる。描かれた人の表情、空間的な配置、着ている服装…etc.etc.
      
本当にみんな違う見方、違う感じ方、違う視点を持っていて、人ってすごいな、人って豊かだなーと。
それがそのまま肯定されて、それぞれの人がそれぞれの想像力を広げていったら、この世界はどれだけ豊かになるのだろう!と思わされます。
     
そんな対話型絵画鑑賞を、今週末の日曜日17時~18時に行います。
     
その日は、会場で『生と死を考えながら~「苦労のない穴にさようなら」』というイベントを、2時〜21時まで開催していますが、この対話型絵画鑑賞だけの参加も可能です。
(というか、対話型絵画鑑賞は参加者が多い方がみんなの言葉で対話をつむいでいけるので、時間がある人、来て!来て!来て!)
     
今回の対話型鑑賞では、フリーダカーロの作品とか、ゴヤだとかフランシスベーコンだとか、カラバッチョだとか、一人で見た時には少しドキドキして、人と感想も共有しづらかったかも?というような作品を4〜5作品選んで対話します。
なので、「オトナの対話型絵画鑑賞」と命名しました。
(こういうマニアな対話型絵画鑑賞やるのは、ここだけかも?)

     
ファシリテーターは、このイベントの主催ユニット「名物天冠」のmaruとみこ。
この二人は、西東京市の小学校に出向いて、小学生を対象に対話型絵画鑑賞をやっている二人です。
またこの二人は、東京都美術館で、アートを介して誰もがフラットに参加できる対話の場を作り様々な価値観を持つ多様な人々を結びつけるアート・コミュニケーター「とびラー」の活動もしています。
      
当日はこの「オトナの対話型絵画鑑賞」の後にはバータイムもありますし、その前にも他の企画も用意してありますので、よろしければそちらの方へも!
   

   
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下記は、イベント全体の紹介文です。

 

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『生と死を考えながら~「苦労のない穴にさようなら」』
(8月5日(日)2時~21時、田無の西東京市市民会館にて開催)
           
最初にあやまっておきます。すいません。

へんなイベントを企画してしまいました。

アート系ボランティアで出会った3人女子(ユニット名「名物天冠」)が企画した、生と死について思いをはせたイベントです。と言っても、真面目なものではまったくありません。真面目な皆様からはきっとひんしゅくを買うに違いないので、そういう方は来ないでください。すいません。

このユニットを結成した3人は、現実世界では、死について色々な思いがあり、グリーフワークを勉強したり、死について対話する場を作ったり、そういう場に参加したりもしている3人です。

しかーし。
真面目に深刻にそういうことを考えることになんだか疲れることだってあるわけさ。
そして、生も死も笑い飛ばすようななにがしかがあったら、そういう場があったら、そういうことが語れる場があったら、こういうときはこう語るべき、こう振る舞うべきをこえて、本当は自分は何を思っているのか、何を感じているのか、そこを語る、語れる場があっていんじゃないか、っていうか、自分たちで作っちゃおうぜという感じで考えました。
         
そしてもうひとつ。
この場は、このイベントは、まったく、なんの役にも立ちません。
なんの役にも立たない場を、この地球上にどうやって増殖させることができるだろうかというのも、このイベントの狙いのひとつです。


        
この世界は、この地球は、役に立つことばかりが求められていると思いませんか?
役に立たないといられないような場所ばかりで、窮屈で死にそうだー。

役に立たないと生きていてはいられないような、なんだかそんな強迫観念や息苦しさが日々増していっているような気がしていて、それが自分の生きにくさにもつながっているような気がしていて。役に立たないものや人はこの世界から排除する的な。そういう流れに対していかにして抗えるかという。
なわけで、ここらでひとつ。
まったく意味のない、決して役に立たない場を立ち上げたい、という意味不明の野心があって。
いや、でも、そういう役に立たない、意味のない、くだらない、それでもそこにいてもよくて、意味も役割も求められない場があるときっといいよというわけで、そんな場になります、きっと。
        
あ、そうそう。

タイトルの「苦労のない穴にさようなら」ですが、これはゴリラのココに飼育係が手話で「死んだゴリラはどこへ行くのか」と聞いたら、「苦労のない穴にさようなら」と答えたという、そこから取りました。
      
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タイトル
『生と死を考えながら~「苦労のない穴にさようなら」』

日時:8月5日(日) 2時~21時

場所:西東京市市民会館・5階多目的室「松」   
(東京都西東京市田無町4-15-11)
    
西武新宿線田無北口徒歩8分 

参加費:500円(バータイムなどはそれ以外に実費で徴収)
主催:ユニット「名物天冠(めいぶつてんかん)」
申込:shimanabukai*gmail.com

(*を@に変えてお申し込みください)

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タイムスケジュールは以下のような感じです。

どこから参加してもOKです。
どこから参加しても参加費500円です。笑
        



2時~3時
「ユニット「名物天冠(めいぶつてんかん)」シンポジウム」
ユニット名物天冠の3人が生と死について、本音で語る。

普通言えない本当の気持ちや思いなどを語るため、素顔では本音が言えないので、3人は多分何かに扮装したり変装したりして語ると思います。
そしてもしかしたら、見ている参加者の人にも話をふったり巻き込んだりするかもしれませんので、よろしく。

    
3時半~4時半
「覆面企画」
(ユニットの3人が各々、部屋の一角で何かやってます。)
当日にならないと何があるかわかりませんが、例えば宇宙人が地球人の悩みに答える人生相談だとか(もしかしたらカードも使うかも。笑)、生と死を考える何かを作るワークショップだとか。
      
5時~6時
「オトナの対話型絵画鑑賞」

実はユニットの3人は対話型絵画鑑賞というので出会いました。
対話型絵画鑑賞というのは、絵画を見ながら、みんなで思ったことや感じたことを対話するという鑑賞方法。
オトナの、と名付けた通り、フリーダカーロだとか、ゴヤだとか、フラシス・ベーコンだとか、シブい絵画を見ながら対話したいと思っています。

      
6時半~
参加してくださった皆さんとともに、死生観について笑いとともに語るバータイム

(この日はたぶん基本的にそんなに深刻&しんみりする方向ではないと思います。ごめんなさい。なので、「笑いとともに」と書きました。)
キャッシュオンデリバリーで酒やつまみを用意します。
(モヒートなんかもあるかもよ~)

(亡くなったお父さんが好きだったというつまみや駄菓子を用意してくれるかも)
       

*一見ふざけているように見えるかもしれませんが、「死」を茶化す場ではありません。

*3人にとっての生と死を真摯に、だけど笑いと共に表現できる場になればと思っています。

*来た人が、元気になって、明日も生きよう!と思えるような場になったらいいなという願いを込めて。
  

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主催ユニット
「名物天冠」(めいぶつてんかん
3人のメンバー紹介

 

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seikokt
地球に降り立つのがほぼ初めてであるがゆえに、人間と関わるメソッドがあまりなく、生きにくさを抱えて生きてきた宇宙人。
地球では、生や死について対話する場を重ねたりしてきた。
地球上での太極拳の師匠が「笑いながら死にたい」と言うのを聞き、その境地に達する方策を地球的に模索中。

 

 

 

maru
鉄仮面をかぶり育てられ、自分と言う人間が分からないまま大人になった。それゆえ、人との距離感がうまく掴めない。
個人的な事をどこまで人に伝える?
どこまでが常識?
どこからが非常識?
頼っていい事、甘えていい範囲って何?
人は好きだが人が怖い。矛盾ばかりのこの世の中、頭がグチャグチャです。

 

 

 

未亡人みこ
人は影を食い生きる
をモットーに日々猛進中

 

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