やることより、やらないことのほうが難しい。
やることより、やらないことのほうが難しい。
相手の力を信じて、ただ聴くとか、ただ見守るとかができないような気がする。
相手を承認するような、相手を励ますような、余計な一言をついつい言ってしまう。
そして、それがいいこと、正しいことだと多くの人が思い込んでいる場合が多い。
が、おうおうにして、そういう場合、相手をちゃんと聞いてないし、見てないのではないだろうか。
この場合はこうしたほうがいい、こうふるまうべきだという自分が知っている正しい解答に沿ってマニュアル的に振る舞い、ただ反応しているだけで…。
もし、丁寧に相手を見ようとしたら、そんなに反応的にすぐには言葉は出てこない…。
そういう反応に、置き去りにされている、なんだかわからない不快感をかんじるものの、相手が好意で言っているのだからと、その不快感にフタをする。
そういうことって多いような気がする。
昔は私もフタをする派だったけど、今は感じたそのままを率直に伝えるようになった。
追記1
だから円座やミニカンでは、相手の言葉を丁寧にたどるだけで、自分の主観に基づいたことは一切言わないんだなー、そしてそれだけで相手は勝手に自分の力を思い出していくんだなー、と、そのことを改めて理解した。
追記2
多くの人は、自分が何もしないことの罪悪感、無力感への恐れから余計な一言を言ってしまう。
それは自分がいい人になりたいというみずからのエゴから発せられた言葉であり、相手を真に思って出た言葉ではない。
どこにフォーカスを向けているか
どこにフォーカスを向けるかは大事だと思う。悪いところにフォーカスするか、いいところにフォーカスするか。
多くの人は悪いところにばかりフォーカスする(私も)。
特に自分のことを始終ダメだししている人は多い。
また寝る前にも、今日はここがダメだった、またこれができなかった、あんなことを言っちゃった、と反省している人が多い。(私のことです。苦笑)
これはなんなんだろう。
日本人の傾向?
教育?
私は家庭環境がそうだったんだけど。
悪いことにフォーカスしている人生と、
いいことにフォーカスしている人生。
どっちが幸せかは明らかですねー。
そんな簡単なことに気づかず、多くの人がそうやって生きているのがもったいない。
でも、これも習慣だから、なかなか変えられない。(私も)
なので、私が始めたことは、
Twitterとインスタグラムを使って、この世界や人の美しいところやステキなところを毎日投稿すること。
また、Twitterでは、寝る前に毎日自分を褒める投稿をすること。
さらに、いま断捨離しているから、その経過もTwitterに投稿して、やれたら自分をほめること。
どうなるか、乞うご期待。
「なないろのあめ」
@nanairo_ame
インスタグラムは
nanaironoame
自分が場を作る意味
講演会みたいなところに参加して、誰かの話を受け身で聞いて、誰とも話さずに帰っても、そんな場はほとんど意味がないと私は思っている。
今はネットでどんな情報でも得られ、さまざまな動画も見ることができるのだから、ただ受け身で聞いているだけの場ではほとんど意味がないんじゃないかと。
でも、つながったり質問できたらいいというわけでもないというか。
そこには依然として、知識を与えるものと、知識を受け取るものの、ヒエラルキーがあるままで。
そこでは、主体的に関わることも、自分が一人称になって自分ごととして考えることも、発言することも奪われている。
だからこその、対話なのだ。
登壇者と参加者に差はない。
知識のあるなしは問題ない。
お勉強じゃないのだから。
枠組みを超えて、本音レベルで感じていることや、考えていることが、対等にやりとりされなければ意味がない。
しかし、ほとんどの人はそんな場を経験したことがない。
先生の方がえらくて、正しくて、なるべくその正解に沿ったことを言おうとする。
そのうちに、自分が何を考えているのかも、何を感じているかもわからなくなる。
思考停止。
それをどう壊すかを考えつつ、自分はいつも場を作っている。
そのために一番、絶対に大事なのは、自分が権威にならないこと。
どれだけ、いいかげんに、人間くさくあるかが勝負だ。
立派なファシリテーターになって、みんなに尊敬されたらおしまいなのだ。
怒りっぽい、そのままの自分をなるべくさらす。
そうした時に初めてみんな、こんな程度でいいなら自分でも場を仕切れるよ、むしろ自分の方がうまいよと思って、自分の力を思いだす。
自分的には、立派な人をやるより、いいかげんな人をやる方が難しいと思っているが。
また、登壇者の方のことも、あげすぎない。
というか、時々、ちゃちゃを入れて、価値を下げる。
その方の意見だけに収斂される場になったら、危ないったら、ありゃしない。
また、いろんな立場の人や、専門職や、当事者が、平場で出会い、対等に、対話する場もしかけるが、これまた専門家だけが正しい答えを知っている構造を壊そうとする意図がある。
しかし、そういう考え方に不慣れな人にとっては、私がやっていることが全く意味不明らしいということに、最近ようやく気づいてきた。苦笑
なので、自分が何を考え、どういう意図からこのような場を作っているのかということも、ちゃんと発信していこうと、今さらながらに思っている今日この頃。
あと、コミュニティやネットワークを作るなら、こういう対話などしないで、お茶会や懇親会を作った方がいいのではないかという意見も聞くが、それは難しいと私は思っている。
自分の本音や自分の意見を言った経験のない人がそういう場に参加しても、世間話や一般論しかできないし、そんな会話をしていても目の前に人がいないのと同じじゃないかと私は思ってしまう。
おうおうにしてそういう場は、声の大きい人が支配していたり、ちょっと仲のいい人だけが楽しそうにしていて孤立する人がでたり、既存のヒエラルキーや派閥的な馴れ合いが生じ、少しも本音が語られない。
そんな場が私は大嫌いだ。
こういう場にファシリテーターマインドを持った人が、ひとりいるだけでも場が変わってくる。
でも、ファシリテーター的な人も仕事以外ではやらなかったりするんだけど。
こういうのも、ありとあらゆる場に参加して、自分が嫌な思いをいっぱいして、自分の言葉をちゃんと聞いてもらわない経験があるからそう思うのかもしれない。
が、いずれにしろ、自分が何を考え、なぜこういう場を作っているのか、きちんと言語化しないと伝わらない。
自分が情報発信しないでいて、理解してもらえないと言っているのは単なる自分の怠慢にすぎないのだから、少しずつ、考えていることを言葉にしていこうと思う。
読書会のお知らせ
10月から2か月に一回のペースで、本を読んで生や死について考える読書会を始めます。
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読書会のお知らせ
日時:10月12日(金)19時〜21時
場所:文京区男女平等センター会議室
https://www.bunkyo-danjo.jp/access.aspx
参加費:施設使用料1400円を参加者でワリカン
読む本:田口ランディ『逆さに吊るされた男』
主催:「死を考え学ぶ会」読書部
申込:shimanabukai@gmail.com
生や死について、本を読む読書会を始めます。
10月から2か月に一回のペースで本を読んでいきます。
本は事前に読んできて、当日は参加者でまず各々感想や感じたことを述べた後に、フリートークするというスタイルです。
少々、読むのが重そうな本、読んだ後に誰かと何かを話したくなるような本をあえて選んで読んでいきます。 生や死についてじっくり考えざるをえないような本を選び、それについてみんなで話します。
とはいうものの、そんなに堅苦しく考えないでください。 本に触発されて自分の話をただ語るのでもOKです。
この読書会は、連続して参加してくださる方が来てほしいなぁとも思っております。
以前、森川すいめいさんの『その島のひとたちは、ひとの話をきかない』という本を、毎月1章ずつ読んでいく読書会をやったことがあります。
そもそもなんの共通点もなかった参加者どうしが、本に触発されて自分が感じたことを語り、それを聴き合っているうちに、人ってこんな風に感じることが違うんだ、そしてこうやって語っている背後にはこんな思いがあったのか、みたいなことが少しずつわかっていって、参加者同士の間に静かで優しい共感やつながりが生まれていったのを経験しました。
本を触媒にして、ていねいに話を聞き合い、ゆっくりと焦らずに関係性を紡いでいきたい、そんな思いが根底にはあります。
今後は、森達也さんの『死刑』や、末井昭さんの『自殺』などを読んでみたいなと思っています。
終了後は最寄りのお店で酒を飲みながら、話の続きをする予定です。
お待ちしております。
追記
この場は気遣いなど不要な場にしたいので、差し入れは禁止です。
自分で飲みたいもの・食べたいものは、各自それぞれ持参で。
唯一無二の豊かさを生きている
facebookに書いた投稿を転載。
やっと「カメラを止めるな!」を観ることができた。前評判がよすぎて、期待しすぎて、イマイチ感強し。
やっぱり映画は予備知識なく期待しないで観たほうが楽しめる。
それから、今日は篠さんの気質の講座へ。
篠さんの講座に出るのは2回目。
篠さんの講座に出ると、なんか、いつも泣きたくなっちゃうんだナ。
今日は、参加者全員がそれぞれ各自心の中で10数えて、数え終わった人から手をあげるというのをやった。(これ、前もやったなーと思いだした)
10数える速度が人によって全然違うということを体験するというワークなんだけど、前やった時もそうだったけど、私の数える速度が一番遅かった。
ほんとはもっとゆっくり数えていたいくらいだったけど、みんなを待たせてはいけないと思って、早めに数えたつもりだったんだけど、それでも参加者の中で私が一番遅かった。
自分のペースでゆっくり数えたい、急がされなくないと思っている自分がいる。
でも参加者の中で一番早く数えた人は、私がなんでそんなにゆっくり数えているかわからないし、待ってられないのだという。
だから、実際にこうやっていろんな人がいることを理解して共存しあうのが大事だと。
それを聞いて、そこでなんだか泣きたくなった。
私は自分のペースや考えていることや感じていることを否定し、人並にならなきゃいけないと思い、自分を矯正して生きようとしていた過去があったことを思い出した。
(とある恩師との出会いにより、ある時から自分に居直って生きるようになったんだけど)
で、そんな資質を持った自分が、ここまで人並以上に(笑)なったってことは、もう自分的には十分じゃないか?
ほんと、よくやってきたよ、自分。
っていうか、そんな自分のペースや自分の感性が今は嫌いじゃなくて、大好きで、それをもっと取り戻したいと思っている。
多くの人は自分の感じ方や在り方やペースこそが正しいと思い、そこから人を見る。
だけどそこから見ている限り、他者のことは理解できない。
社会でよしとされる資質(それは社会にとって都合がいいということだけだけど)以外の資質を持っている場合、自分でも自分を否定し、本当の自分がわからなくなることがある。
いろんな人がいて、そこに優劣はなく、それぞれが唯一無二の豊かさを持っているのに、いつかそれを忘れてしまう。
でも、自分本来の資質を今更ながらに思い出さされ、それがそのまま肯定されると、なんだか泣きたくなってしまうのだ。
道元の言葉と、平安の祈り
がんばるのをやめて、遊ぶこと
先週の土日にキャンプに参加させてもらった篠さんのブログをリンクしました。
いやー、楽しかった!
キャンプで朝ごはんを食べていたら、子ども達が太鼓を叩いて遊び始めて、そうしたら篠さんが朝ごはんをその場で放り投げて子ども達のところに走って行って、率先して一緒に太鼓を叩き始めたのには笑ってしまった。
私も負けてはいられないと思って、乱入して太鼓を叩いた。
そうしたら、三歳の子も小学生も大人もみんなが集まってきて、勝手にドラムや打楽器のセッションが始まった!
面白かったなー。敷きっぱなしの布団の上で、朝ごはんほっぽり投げて、みんな好き勝手に打楽器鳴らしたり、踊ったり、声出したりしてる。
ほかの場ではお行儀が悪いと否定されることも、ここでは否定されない。
むしろ、子供が突発的にやったことに対して、それに乗って、オトナも楽しんじゃおうという姿勢。
そういう経験をしているかどうかで、オトナになってからの在り方が変わってくるような気がする。
こういう経験のある子どもは、自分の感覚を否定しないで、自分の感覚を信じることができるのではないか。
篠さんは、このキャンプは誰も命令や司令をしない場だという。
遊びたかったら遊べばいいし、料理を作りたければ作ればいいし、寝たかったら寝ていればいい。
みんなが遊んでいて、ご飯がなかったらただそれだけのことでたいしたことではない、と。
(でも、晩御飯はみんなが勝手に炭をおこして各自作ったご飯がならんで、それをみんなで分けて、食べ切れなかったほどだったけど!)
これ、先日うかがった藤田一照さんの話と非常に共通していることに、びっくりした。
一照さんはこう言う。
仏陀は、苦行や、型があって外側に正解を求める修行方法に疑問を抱いて、それこそが苦しみの源だとして、そのパラダイムの外に出たのだ、と。
頑張ることや努力することをやめて、無になろうと努力するのをやめて、何かを追いかけるのをやめて、今起きていることをそのまま迎えいれること。
自我を使って、自他を分けて、自分だけをなんとかしようとするのではなく、自分を開いていく。
自分をコントロールするのをやめて、ただ、今にくつろぐ。
エンジョイすること。
遊ぶこと。
その中に、その瞬間に、すべての事象にあらゆるものに、神は遍満(浸透)している。