なないろのあめ

七色の魔法の杖を持って、この世界に花を咲かせよう。歓びの歌を響かせよう。

新しい、次の、10年が始まる。

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時計を買った。

9年ぶりくらいで。

 

以前、時計を買ったのは、実父が死んでしばらくしてから。

父が死ぬ前の数年間は引きこもっていた。

末期ガン宣告を突然受けて父は4か月くらいで死んだが、その間国立病院から追い出され(いま病院は満床状態)、在宅ホスピスの仕組みを私が作り、座薬のモルヒネを処置しながら父を自分で看取った。

 

白目の部分が少しずつ黄ばんでいき、人が死に行くプロセスを、専門家に頼らずに寄り添い看取った。

 

その数年前から高齢犬2匹が失明、痴呆、徘徊、寝たきりになり、つまり父のそのことがある前から、ほとんど家から出ない生活を送っていたとも言える。

 

しかし、振り返れば、父の死ぬ10年前くらいから引きこもり時期に入り始め、あまり人と関わらなくなっていた。

 

父や犬が死んだ後、人を求めて、外へ出るようになった。

当時の自分は本当に孤独だった。

父も愛犬2匹も死に、原家族が崩壊して、原家族とのつながりもなくなっていた。

 

父の葬式の時、こう考えた。

私の葬式には一体、誰が来てくれるんだろう、と。

 

そして愕然としたのは、父が死んだその年、自分のことを忘年会に誘ってくれる人すら一人もいないと気づいた時だった。

父が死んだ苦しみを分かち合える友人も仲間もいなかった。

 

父が残してくれたお金を使って、それから外に出かけ始めた。

人を求めて。

人とのつながりや交流を求めて。

出かけて行っていろいろな場所に行ったけれども、自分の居場所が見つからなくて、それで自分にとって心地よい場やつながりを作ろうと必死で動いていたのが、父が死んでから今までの9年間だったと言える。

 

この9年間でfacebookの友達は千人以上になり(全員、直接会ったつながり)、自分でさまざまな場やコミュニティやつながりを作り、自分でファシリテーターをやり、役者として芝居の舞台に立ち、女神の扮装をして「語り」をやり、瞑想指導の講師をし、自分が話すお話会をやった。

つまり、この9年間は外へ外へと拡大していく9年間だったと言える。

 

父が死んだ年、私を忘年会に誘ってくれる人は誰もいなかったし、私が参加できる忘年会もなかったけど、今年などは忘年会が多すぎてスケジュール調整が大変。

いろんな場が、いろんな人達が、私の存在を待っていてくれているのを感じる。

無理しないで、自分が自分のままで、それを喜んでくれる居場所がいくつもあり、自分でも場を主催している。

もう、孤独ではない。

 

その前の10年間は、それとは対照的に、深く深く潜っていく10年間だった。

著名な精神科医と出会い、生まれて初めて無条件に承認してもらう経験をし、精神療法を学び、自分の内側へ、社会の内側へと、深くダイブしていった。

(その成果として、自著を一冊書き上げた。)

 

自己肯定感を少しずつ高めていった。

丁寧に自分を見つめながら。

 

自助グループを主催し、コミュニティ通貨を勉強し、有機農法の畑を始め、市民運動や障害者自立生活運動とも関わった。

 

 

 

そして、これからの(今からの)10年間は、たぶん循環させていく10年になるだろう。

深く深く潜ってつかみ取ったものを、横へ広げて行ったネットワーク、この世界の網の目状のつながりの中へ、ひろげ、循環させていく。

 

まず、自分が喜び、幸せになり、豊かになり、それをこの世界に巡らし、循環させていく。

そんな10年になる。

 

利己でも利他でもなく、自分も人も共に豊かになっていく第三の道へ。

 

 

あれ。

そうだった。

時計の話だった。

 

父が死んだ後に、いろんな場に赴き始めたが、その頃私は自分の身なりに全く意識が向いていなかった。

看取りその他で、身なりどころではなかったし。

 

靴を脱いで参加するワークショップみたいなところに出て、自分の靴下に穴が空いているのに気づき、帰りにいっぱい靴下を買って帰ったっけ。

 

それから、少しずついろんな場に出かけ、親しく話せる相手も増えてきた頃、その内の一人から、私がつけている時計がぼろぼろだと指摘された。

 

ダイバーウオッチ。

30代前半はダイビングにはまり100本以上潜った。

その頃からずっとつけていたダイバーウオッチ。もう潜りに行くこともなくなっていたのに。

確かにぼろぼろで、言われるまで気づかなかった。

 

ぼろぼろだと指摘されて、恥ずかしくてすぐ買ったのが薄いバイオレット色のG-shockだった。

 

そして、この数日前。

ふと自分の腕を見たら、G-shockのこの時計のバンドが傷だらけになったり、色がはげたり、ぼろぼろになっているのに気づき、自分が次のフェイズに来ているんだなと、なんとなくわかった。

 

新しい、次の、10年が始まる。

 

 

私は笑いを選択する

私が市民運動と関わりだしたのは、2004年のイラク日本人人質事件がきっかけだった。
この時、解放された高遠さんらに浴びせられたバッシングを見て、日本は全体主義に向かっているという恐怖を感じ、自分が足元からできることは何かを考え始めた。

あの時、このバッシングに対して私と同じような違和感を持っている人が見つからなかったから、自分が自分のやり方でしかやっていくしかないなと、思った。

市民運動やっている人達も沈黙していた。
市民運動やっている人達は、ヘイトスピーチが始まった当初も沈黙していた。
みんなが騒ぎだしてから、一緒に声を上げ始める人達だとしか思えなかった。

そもそも、有機農の畑を始めたのも、これが発端。
食とエネルギーを国や企業に支配されたらノーも言えなくなる。
最低、言いたいことを言うために、食とエネルギーでは自立しておこうと。
311の起こるずっと前だったけど、そんなことを言っている自分はずいぶんと変人扱いされたが。変人どころか、ばかにされた。私をばかにしていた人達が、311後に手を返したように考えを変えたので、逆に私は畑をやる気が萎えてしまったんだけど。

解放されたジャーナリストの安田さんに対するバッシングを見て、少しも1ミリも変わってないな、と。
それどころか、悪くなっている。

今年になってからの日大とかスポーツ業界へのバッシングを見ても、何かちょっとでもやらかした人を手ぐすね引いて待っていて、みんなで吊るし上げようという感じがこわい。

もはやもはや、笑い飛ばすしかないなー、いろいろと。

地域で笑いヨガ始めます。笑

自分で考えること

小周天を学びたくて土日で大内雅弘さんの講座に参加していたのだが、一番共感したのが、「先生がやっているからとマネするのは危険。自分で考える。なんでそうするのだろう、何が起きているのだろうと自分で考える」と言う大内さんの言葉。


大内さんは「一人一人がリーダーだ」と言う。

これに強く同感。

 

私が色々な場に行って一番違和感を感じるのはこれだから。

 

WSでも講座でも瞑想をする場でもなんでも、教師のことを鵜呑みにしてコピー人間みたいになっている人が多くいらして、それが私には非常に居心地悪い。
マネするだけならまだしも、信者化すると言うか…。

 

教師の承認を得ようとして目の前にいる人(仲間や、共に学んでいる対等なつながり)のことが見えなくなったり、挙句の果てにはその教師のやり方を布教し始めるというか…。
そういう場がほとんどというか、それ以外の場がなさすぎるというか。

 

で、自分のような変人は、常に違和感を感じていたり、疑問を持っていたりするわけで、それを口にでもしようものなら、逆に批判されて排除されるというか。


ほんと、あからさまに排除されますよ。そういう経験を何度もしている。苦笑

 

権威的な人が場を作っていたり、権威的なアカデミックな場(既に社会的評価が確立している場所)であったりすると、その傾向は強まる。


権威的な何か(正解だったり、肩書きだったり)を求めて集まっている人が多いので…。
たいがい、私はそういう場にはいられなくなってやめるんだけどね。

 

権威のある人の周りに多くの人が群がって取り巻いている状況が耐えられない。
それについつい水を浴びせたくなってしまう人間です。(あー、だから嫌われるんだろーなー)

 

しかし、でも、今までの社会というのはそうだったのかもしれない。


武道でもなんでも、口伝で、型をとにかく疑問をはさまずに身につけるところからやらされるというか。

 

大内さんは、「茶道でなぜ正座するのかわからない」とか言っていたが、そういう、そもそもの疑問を抱くこと自体が封じられていたのかもしれない。

 

しかし、そのやり方自体が変わらなくてはならない時期なのだという感じがしている。


それは男の文化で1500年続いて悪くなる一方で、そのやり方ではこれ以上進化しないという大内さんの言葉に同感。

 

インターネットの普及と同時に、だれか特定の人が知識を占有するやり方は終わったのだと思う。

 

戦時中に「天皇陛下バンザイ」と言って死ぬのも、オウム事件も、こういう在り方の延長線上にあるような気がしていて。

 

 

さて。
私たちは次の時代をどう生きるのか。どう生きたいのか。

ラクに生きよう

なんていうか、深刻になりすぎる自分を「相変わらず重いね。爆笑」「またまたまた」とか突っ込む自分を育てると、もっとラクに生きられると思うよ。
人生、どれだけラクに生きられるかが勝負だ。
私の場合ね。
重いのがお好きな人にはオススメしません。

 

それから嫌いな人とムリして付き合わないことね。
距離置いて自分のやりたいことにエネルギーを注いだほうがいい。
マザーテレサじゃないんだしぃ。
その人が自分を幸せにしてくれるわけでもないので。
そこから離れても居場所はあるよ。世界は広い。なければ自分で作ればいい。

 

自分のことをコントロールしようとする人とは関わらないほうがいい。
例えばこっちが好きで勝手に怒っているのに(その人に怒りをぶつけているわけでもないのに)、怒りの理由も聞かないでそんなに怒ることもないとか言ってくる人は介入であり、余計なお世話であり、自分の暴力性に気づいていない。
ただし、「私はそれを聞きたくない」「自分は怒りが苦手だから聞けない」となったら、それは自分を主語にしたメッセージになるから話は違ってくるし、相手がそう言っているのにやり続けたら、嫌がらせになる。
ま、そもそも怒っている人がイヤなら距離を置くか、離れればいいだけで、それをやらないで相手を変えようとするのはコントロールだし、我慢して関わるのはそうすることに自分がなんらかのうまみや保身を感じているか、もしくはどM。

 

自分がいいと思うものやいいと思うやり方を、ぐいぐい押し付けてくる人も苦手。
私の人生なんだから、ほっといてくれーーーと叫びたくなる。
そういう人は好意で(好意だと思いこんで)言っているからノーも言いにくいけど、最近はきっぱりとはっきりと自分には必要ありませんと言えるようになった。
自分がやっているのが一番いいものだという思い込みを押し付けられるのも、迷惑な話だが。
人には向き不向きや相性があり、万能なものはない。

 

だいたい、多くの人は、自分のことをわきに置いといて人のことをやりすぎる。
人を見て、あの人が病気だとか、あの人が問題だとか言う人が多いけど、その自分がどれだけ狂っているんだか、それを見た方がいい。

 

自分のことをやるより、人のことをやったほうがずっとたやすい。
自分のことを見るのは痛い。
それで、自分の人生を生きないで人のことだけやって人生が終わっちゃうんだけど。

 

自分のことをやるだけでも世界は変わる。
(集合意識レベルではつながっているから)
というか、そこからしか始められない。

場づくりの第一歩(若き僧侶の方へ向けて)

昨日、若い僧侶の方々と飲みながら話す機会があった。

その中で、僧侶の方からこう聞かれた。

「どうすれば「場」を作ることができるのか、そもそも何からどうやって始めていいのかとっかかりがよくわからない。

お寺でデスカフェとかグリーフワークとかマルシェとかやりたいと思っているけれども、どこから手をつけたらいいのかわからない」と。

 

私がデスカフェを開催したり、「死を考え学ぶ会」で対話の場や読書会をしたり、地域のコミュニティ作りをしているので、そのように聞かれたのかと思う。

 

昨日はその話だけをじっくり話している雰囲気でもなかったため、丁寧な説明ができなかったので、ここに少しまとめて書いてみようと思います。

 

【注意】以下、長文です。ヒマな人だけ読んでください。

 

 

そもそも場づくりを始めたのは15年くらい前?

セラピーグループなどに通っていて、DVだとか児童虐待の被害者や加害者になったり、孤立化する中で自殺未遂したりする人などを見ていて、もっと気軽に普段から自分のことを話せる場やつながりがあったらいいと思ったのが、場を作ろうと思った最初だった。

 

場を作るにあたって、自分が一歩踏み出せたのは、恩師のおかげかなぁ…。

 

「完璧主義を目指すのではなく、今できることを今できるやり方でやればいい」という言葉に感銘を受けて。

 

そもそも恩師自体が日本で最初の摂食障害自助グループを始めた時、誰も来ない中を一人でずっと座って待っていたそうだ。

ある日、一人の女性が扉をあけて入ってこようとしたが、中にむさ苦しいおじさんが座っているのを見て、そのまま戸を閉めて帰ってしまったとか。

それでも座り続けていたら、少しずつ人が来るようになって、そのうちたくさん人が集まるようになった。

それが現在の「NABA」(摂食障害の自助・ピアサポートグループ)の発祥だという。

 

それを聞いて、「そうか。自分がそういう場を作りたいということが重要なのであって、誰も来なくてもただ座り続けて待っていれば、自分と同じようにその場を必要としている人が助かるのだ」と思った。

そう思ったらすごく気持ちが楽になって、そういうグループも一切やったことがなかったし、知識はまったくなかったけど、とにかくやってみようと思った。

助言や批判や否定のシェアが嫌いだったので、言いっ放し・聞きっぱなしの当事者グループのスタイルを借りようと思った。

そうすれば主催者も参加者も対等であり、気負わなくても気軽に場が作れると思った。

 

まずやったことは、自分が作りたい「場」の名前をつけて、会場を借りて、チラシを作ること。

名前は「生きにくい人のための自助グループ」とした。

会場は公的施設を借りられるということがわかり、地域の交流センターなどに登録をした。

 

そしてA4のチラシを作ったわけだが、これが思いのほか、手間取った。

自分はコピーライターだったからA4のチラシくらいお手のもののはずなんだが。

 

コピーライターやフリーライターをやるときには既にあるものを依頼されてこぎれいに文章にすればいいだけだが、今回はそうじゃない。

そもそも、自分が作る「場」だ。

どんな場を作りたいか、どうしてこの場を生み出したいのか、そもそもそれがなければ告知文など書けない。

 

文章を書こうと思うと、不安が出てくる。

ものすごく怖い。

経験値も知識もまったくない。

自分にできるのか。

そもそも人は来るのか?(誰も来なくても座って待っていようと思ったくせに、不安になる。)

 

振り返ってみると、私はその時まで主体的に何かをやったことがなかったということに思い当たる。

学校、就職、フリーランスときたけれど、世の中のありがちなレールに乗って、その中で優秀になるべくして動いていただけで、自分に主体性はなかった。

フリーとはいえ、依頼があって、それをやるという感じで。

 

誰からも求められていないのに、誰も来ないかもしれないのに、金になるわけでもないのに、一体やる意味があるのだろうかと、もんもんとする日々が続いた。

 

が、誰かのためにやるのではなく、まず自分自身がこの場を必要としているから、自分のためにやるのだ。

誰も来なくてもいいじゃないか、誰か来てくれたらその人と相談しながら進めればいい。

そう居直って、やっとA4のチラシが書けた。

 

それをパソコンとつないだプリンターで何十枚も印刷し、地域の女性センターだとかチラシを置いてくれそうなところに持って行った。

 

そして…

そして…

 

チラシを見たという一人の方から、連絡があったのだ!

 

最初はその方と私と二人だけの「場」がスタートした。

 

いやー、こわかったねー。

そもそも人間関係があまり得意ではなかった私が、チラシだけ見てきた、見ず知らずの人とふたりっきり。

冷や汗が出ていましたよ。

 

でも、その場を続けているうちに、さらに何人かの方から連絡があり、数人の人が固定メンバーとして来てくれるようになった。

自分がやっているのではなく、その人たちがやってくれていると思ったら続けられた。

 

そのうち、参加者の一人の方が味噌作りが得意だとわかって、その方に講師になってもらって味噌作りワークショップを企画した。

地域の調理室を借りて、市の広報に載せてもらって、満席の中での開催。

これはよかったなぁ。

自分は被害者や犠牲者だと思っていた当事者の方が、講師になり、主役になり、自分には力があるということを思い出すプロセスを見せてもらった。

ピカピカと輝いていた。

 

そうこうしているうちに、場づくりがどんどん楽しくなっていった。

そして今に至っているのです。

 

一番こわかったのは、最初の一歩を踏み出すときだけ。

あとは、来てくれた人やつながりの中で広がっていった、そんな感じなのです。

自分がやると思うと場を自分が仕切る人になってしまうけれども、来てくれた人が主役の場だと思うと、自分も楽だし、参加してくれる人もそのほうが楽しいということが回を重ねるたびごとにますますわかっていったという感じです。

 

自分で場を作るようになってから、勉強のために自分自身もありとあらゆる場に参加してみました。

その時に感じた様々な違和感が今の自分の「場」を作っているというか。

 

参加者を無視した場とか、スタッフや常連がつるんでいて輪に入れない場とか、権威的な人がいてみんながその人のことしか見ていない場とか、そういう場がほんと嫌だったので、自分はそうじゃない場を作りたいと。

来てくれる人が一人残らずここには自分の居場所があるという場を作りたい。

それは、自分がそういう場を必要としていたからなんですね。

 

なので、自分ができることを自分にできるやり方で、まず一歩踏み出す。

そのときにウソをついてもバレるから、自分も初めて場を作るから怖くて仕方ないとか、デスカフェ だったら自分は僧侶だけど自分も死のことを何も知らないとか、それをさらすところから始めたらいいのではないかというのが、自分の経験から来る実感です。

等身大のその人がいるからこそ、場に安心感が生まれるというか。

そのことで、参加者の方も、自分も自分のままでいていいと思えるというか。

 

自分も色々な場に行くようになって、自分の生活範囲の中では絶対に出会えなかった人やつながりができて、本当に生きるのがラクになったし、楽しくなったし、豊かになったと思っています。

 

 

そして、お寺こそは地域のコミュニティの中心になりうる場所です。

どんな人でも生まれていつか死ぬ。

生と死は万人に平等な営みであり、お寺はそれを語れる場だと感じています。

私もデスカフェ とかやりましたが、私のような俗物がやるより、ブッダを背負っているお坊さんが場を作る方が圧倒的に結界をはれると思うのです。

 

そのような場を若き僧侶の方々がどんどん開いていってくださるのを楽しみにしております。

違和感

なんだろうな。

 

facebookとか見ているて、5人~数十人で楽しそうに写真写っている記事がいっぱい載っているじゃない。


私にはあれが信じられなくてね。


つい、数年前まで私にはそういう友達が一切いなかったし、ほしいとも思わなかった。

人と付き合って意味のないことを話している時間が無駄だとしか思えなかった。


それなのに、自分が孤独で他者を必要としているということに気づいたのは、父が死んだ9年前。

葬儀の父を見て、もし自分が死んだら一体誰が弔いに来てくれるのだろうと思った。


それから、人を、仲間を、コミュニティを求めて色々な場に出向いた。

(いま、振り返ってみたら、そんなことをやったのはこの時が初めてだ)


どういう場所に行っていいかよくわからなくて、自分が関心のある市民運動だとか社会運動的な場を探して赴いた。

探してみると、そういう場って結構あるんだね、自分が知らなかっただけで。

しかも、参加費も無料とか、格安。

なかには、終了後に懇親会と称して飲み会を設定してあるところがあり、そういう場を探してはよく出かけたなぁ。


でも、むなしかった。

目の前の人と話していても、相手も私の話なんか本当に聞いてないし、興味もないし、私も同様。


そのうち、そうじゃない場やつながりを作りたくて、自分でも場づくりやファシリテーションを勉強して、自分でも場づくりを始めた。

コンセプトは、私の場に来た人は、ひとり残らず、ここには自分の居場所があると思って、帰ってもらうこと。


思えば、いま私のつくる場では、きゃぴきゃぴした集合写真など撮ったことがないなー。

でも、たぶん、私の場に来た人は、他では感じないつながりを感じてくれているはずだという自負はある。


たまたま今日、とある集まりに参加して、50人くらいの人が集まった懇親会に参加したけど、話したのは目の前に座った数人。

おいおい、席替えやファシリテーションしてくれよ。


しかし、こういう場がほとんどなんだろうな。

それなのに、楽しそうな風を装って集合写真を撮る。


それが当たり前だと思っている。


私は違和感を感じて違う場を求め、ないなら自分で作ろうとした。


目の前にあるものに感じる違和感は大切だ。