なないろのあめ

七色の魔法の杖を持って、この世界に花を咲かせよう。歓びの歌を響かせよう。

生きる意味がわからなかった。

自分の中にわいてきた本当の気持ちや思いや感覚を否定しながら、どうやってライターとして記事を書いていたかについて綴ってみると直前の投稿で予告したが、その前に、なんとなく今書きたくなったことを今日は書いてみる。

先日、家の近所を歩いていたら、20年くらい前の自分の感覚を思い出した。

生きる意味がまったくわからなかった頃のこと。


生きる意味がわからないことがイコール私の生きにくさだった。

他の人というのは生きる意味がわかっているのだろうか。
楽しそうに快活に生きている人たちは、生きる意味がわかっているのだろうか。

今またそんなことを、他の人にインタビューしてみたい気分になっている。



私は生きる意味も、楽しいという感覚も、幸せだという感覚も持ち合わさずに生きてきた。
それがわかるようになったのが、つい最近というか。

夢もなかった。希望もなかった。(苦笑)

お金があっても、それを何に使っていいかがよく分からなかった。

他の人ってどうなんだろう?

 

私の場合は唯一の夢が犬を飼うことで、その夢が実現したら、もう何をしていいかわからなくなっちゃったんだ。


子供の頃は、親だとか、社会で生きている大人たちを見ても、こんな風にはなりたくない、みたいにしか思えなくて、自分の中にロールモデルと呼べるような人がいなかった。

小学校の頃とかによく、尊敬する人は?というのを記入する欄とかがあるけれども、そこに誰を書いていいかわからなかった。
尊敬する人という欄の中に「両親」と書く人がいるけれども、そういう人が本当に羨ましかった。

まわりに、自分のそういう気分を共有できる友達もいなかったし、友達をほしいとも思わなかったし、むしろ友達と過ごす時間を無駄だとしか感じていなかった。

そういう感覚をなんとかやり過ごして生きてきた。
というか、そこそこ優秀な部類だったかもしれない。
友達とかいなかったし(ほしいとも思わなかったし)、家には居場所はなかったから、本ばかり読んでいたからなのかもしれない。

一番しんどかったのが30年くらい前だっただろうか。
当時は、今みたいにセラピーもカウンセリングもコーチングもまったくなかった。
アロマもマッサージもフラワーエッセンスもリーディングも気功もヨガも瞑想もなかった。そういうのをやっているのは宗教的な危ない人たちと見られていた。

今、振り返って見て、ほんと、そうだったなー。

そんな時代もあったんだなー。
生協ですら危ない人たちと言われてたもん。笑

だから、今みたいな時代は、本当にあふれかえっているとは言えるけれども、いろんなアプローチやいろんな視点があるから逆に混乱するのかもしれないけれども、やはり私から見たら豊かであるように思う。


二十数年前。
犬を飼って、生きる目的がなくなって、毎日やることは今日のお昼は何をどこで食べようかということを考えるだけ。
当時は毎朝起きて(そもそも起きた瞬間から全身がだるかったけれども)、いまはやめているタバコを数時間ただぼーっと吸いながら午前中を過ごしていた。

わ、ひでぇ。

今思い出すと、すごいな、自分。

 

そんな時代があったことも忘れているくらい、今はやりたいことややることがいっぱいありすぎて、やることをしぼらなきゃと思っている自分がいる。

(つづく)