なないろのあめ

七色の魔法の杖を持って、この世界に花を咲かせよう。歓びの歌を響かせよう。

自分が場を作る意味

講演会みたいなところに参加して、誰かの話を受け身で聞いて、誰とも話さずに帰っても、そんな場はほとんど意味がないと私は思っている。
今はネットでどんな情報でも得られ、さまざまな動画も見ることができるのだから、ただ受け身で聞いているだけの場ではほとんど意味がないんじゃないかと。

でも、つながったり質問できたらいいというわけでもないというか。
そこには依然として、知識を与えるものと、知識を受け取るものの、ヒエラルキーがあるままで。

そこでは、主体的に関わることも、自分が一人称になって自分ごととして考えることも、発言することも奪われている。

だからこその、対話なのだ。

登壇者と参加者に差はない。
知識のあるなしは問題ない。
お勉強じゃないのだから。
枠組みを超えて、本音レベルで感じていることや、考えていることが、対等にやりとりされなければ意味がない。

しかし、ほとんどの人はそんな場を経験したことがない。
先生の方がえらくて、正しくて、なるべくその正解に沿ったことを言おうとする。
そのうちに、自分が何を考えているのかも、何を感じているかもわからなくなる。

思考停止。

それをどう壊すかを考えつつ、自分はいつも場を作っている。

そのために一番、絶対に大事なのは、自分が権威にならないこと。
どれだけ、いいかげんに、人間くさくあるかが勝負だ。
立派なファシリテーターになって、みんなに尊敬されたらおしまいなのだ。
怒りっぽい、そのままの自分をなるべくさらす。

そうした時に初めてみんな、こんな程度でいいなら自分でも場を仕切れるよ、むしろ自分の方がうまいよと思って、自分の力を思いだす。

自分的には、立派な人をやるより、いいかげんな人をやる方が難しいと思っているが。

また、登壇者の方のことも、あげすぎない。
というか、時々、ちゃちゃを入れて、価値を下げる。
その方の意見だけに収斂される場になったら、危ないったら、ありゃしない。

また、いろんな立場の人や、専門職や、当事者が、平場で出会い、対等に、対話する場もしかけるが、これまた専門家だけが正しい答えを知っている構造を壊そうとする意図がある。

しかし、そういう考え方に不慣れな人にとっては、私がやっていることが全く意味不明らしいということに、最近ようやく気づいてきた。苦笑

なので、自分が何を考え、どういう意図からこのような場を作っているのかということも、ちゃんと発信していこうと、今さらながらに思っている今日この頃。

あと、コミュニティやネットワークを作るなら、こういう対話などしないで、お茶会や懇親会を作った方がいいのではないかという意見も聞くが、それは難しいと私は思っている。
自分の本音や自分の意見を言った経験のない人がそういう場に参加しても、世間話や一般論しかできないし、そんな会話をしていても目の前に人がいないのと同じじゃないかと私は思ってしまう。
おうおうにしてそういう場は、声の大きい人が支配していたり、ちょっと仲のいい人だけが楽しそうにしていて孤立する人がでたり、既存のヒエラルキーや派閥的な馴れ合いが生じ、少しも本音が語られない。
そんな場が私は大嫌いだ。
こういう場にファシリテーターマインドを持った人が、ひとりいるだけでも場が変わってくる。
でも、ファシリテーター的な人も仕事以外ではやらなかったりするんだけど。

こういうのも、ありとあらゆる場に参加して、自分が嫌な思いをいっぱいして、自分の言葉をちゃんと聞いてもらわない経験があるからそう思うのかもしれない。

が、いずれにしろ、自分が何を考え、なぜこういう場を作っているのか、きちんと言語化しないと伝わらない。
自分が情報発信しないでいて、理解してもらえないと言っているのは単なる自分の怠慢にすぎないのだから、少しずつ、考えていることを言葉にしていこうと思う。