なないろのあめ

七色の魔法の杖を持って、この世界に花を咲かせよう。歓びの歌を響かせよう。

違和感

なんだろうな。

 

facebookとか見ているて、5人~数十人で楽しそうに写真写っている記事がいっぱい載っているじゃない。


私にはあれが信じられなくてね。


つい、数年前まで私にはそういう友達が一切いなかったし、ほしいとも思わなかった。

人と付き合って意味のないことを話している時間が無駄だとしか思えなかった。


それなのに、自分が孤独で他者を必要としているということに気づいたのは、父が死んだ9年前。

葬儀の父を見て、もし自分が死んだら一体誰が弔いに来てくれるのだろうと思った。


それから、人を、仲間を、コミュニティを求めて色々な場に出向いた。

(いま、振り返ってみたら、そんなことをやったのはこの時が初めてだ)


どういう場所に行っていいかよくわからなくて、自分が関心のある市民運動だとか社会運動的な場を探して赴いた。

探してみると、そういう場って結構あるんだね、自分が知らなかっただけで。

しかも、参加費も無料とか、格安。

なかには、終了後に懇親会と称して飲み会を設定してあるところがあり、そういう場を探してはよく出かけたなぁ。


でも、むなしかった。

目の前の人と話していても、相手も私の話なんか本当に聞いてないし、興味もないし、私も同様。


そのうち、そうじゃない場やつながりを作りたくて、自分でも場づくりやファシリテーションを勉強して、自分でも場づくりを始めた。

コンセプトは、私の場に来た人は、ひとり残らず、ここには自分の居場所があると思って、帰ってもらうこと。


思えば、いま私のつくる場では、きゃぴきゃぴした集合写真など撮ったことがないなー。

でも、たぶん、私の場に来た人は、他では感じないつながりを感じてくれているはずだという自負はある。


たまたま今日、とある集まりに参加して、50人くらいの人が集まった懇親会に参加したけど、話したのは目の前に座った数人。

おいおい、席替えやファシリテーションしてくれよ。


しかし、こういう場がほとんどなんだろうな。

それなのに、楽しそうな風を装って集合写真を撮る。


それが当たり前だと思っている。


私は違和感を感じて違う場を求め、ないなら自分で作ろうとした。


目の前にあるものに感じる違和感は大切だ。