なないろのあめ

七色の魔法の杖を持って、この世界に花を咲かせよう。歓びの歌を響かせよう。

自分で考えること

小周天を学びたくて土日で大内雅弘さんの講座に参加していたのだが、一番共感したのが、「先生がやっているからとマネするのは危険。自分で考える。なんでそうするのだろう、何が起きているのだろうと自分で考える」と言う大内さんの言葉。


大内さんは「一人一人がリーダーだ」と言う。

これに強く同感。

 

私が色々な場に行って一番違和感を感じるのはこれだから。

 

WSでも講座でも瞑想をする場でもなんでも、教師のことを鵜呑みにしてコピー人間みたいになっている人が多くいらして、それが私には非常に居心地悪い。
マネするだけならまだしも、信者化すると言うか…。

 

教師の承認を得ようとして目の前にいる人(仲間や、共に学んでいる対等なつながり)のことが見えなくなったり、挙句の果てにはその教師のやり方を布教し始めるというか…。
そういう場がほとんどというか、それ以外の場がなさすぎるというか。

 

で、自分のような変人は、常に違和感を感じていたり、疑問を持っていたりするわけで、それを口にでもしようものなら、逆に批判されて排除されるというか。


ほんと、あからさまに排除されますよ。そういう経験を何度もしている。苦笑

 

権威的な人が場を作っていたり、権威的なアカデミックな場(既に社会的評価が確立している場所)であったりすると、その傾向は強まる。


権威的な何か(正解だったり、肩書きだったり)を求めて集まっている人が多いので…。
たいがい、私はそういう場にはいられなくなってやめるんだけどね。

 

権威のある人の周りに多くの人が群がって取り巻いている状況が耐えられない。
それについつい水を浴びせたくなってしまう人間です。(あー、だから嫌われるんだろーなー)

 

しかし、でも、今までの社会というのはそうだったのかもしれない。


武道でもなんでも、口伝で、型をとにかく疑問をはさまずに身につけるところからやらされるというか。

 

大内さんは、「茶道でなぜ正座するのかわからない」とか言っていたが、そういう、そもそもの疑問を抱くこと自体が封じられていたのかもしれない。

 

しかし、そのやり方自体が変わらなくてはならない時期なのだという感じがしている。


それは男の文化で1500年続いて悪くなる一方で、そのやり方ではこれ以上進化しないという大内さんの言葉に同感。

 

インターネットの普及と同時に、だれか特定の人が知識を占有するやり方は終わったのだと思う。

 

戦時中に「天皇陛下バンザイ」と言って死ぬのも、オウム事件も、こういう在り方の延長線上にあるような気がしていて。

 

 

さて。
私たちは次の時代をどう生きるのか。どう生きたいのか。