場づくりの第一歩(若き僧侶の方へ向けて)
昨日、若い僧侶の方々と飲みながら話す機会があった。
その中で、僧侶の方からこう聞かれた。
「どうすれば「場」を作ることができるのか、そもそも何からどうやって始めていいのかとっかかりがよくわからない。
お寺でデスカフェとかグリーフワークとかマルシェとかやりたいと思っているけれども、どこから手をつけたらいいのかわからない」と。
私がデスカフェを開催したり、「死を考え学ぶ会」で対話の場や読書会をしたり、地域のコミュニティ作りをしているので、そのように聞かれたのかと思う。
昨日はその話だけをじっくり話している雰囲気でもなかったため、丁寧な説明ができなかったので、ここに少しまとめて書いてみようと思います。
【注意】以下、長文です。ヒマな人だけ読んでください。
そもそも場づくりを始めたのは15年くらい前?
セラピーグループなどに通っていて、DVだとか児童虐待の被害者や加害者になったり、孤立化する中で自殺未遂したりする人などを見ていて、もっと気軽に普段から自分のことを話せる場やつながりがあったらいいと思ったのが、場を作ろうと思った最初だった。
場を作るにあたって、自分が一歩踏み出せたのは、恩師のおかげかなぁ…。
「完璧主義を目指すのではなく、今できることを今できるやり方でやればいい」という言葉に感銘を受けて。
そもそも恩師自体が日本で最初の摂食障害の自助グループを始めた時、誰も来ない中を一人でずっと座って待っていたそうだ。
ある日、一人の女性が扉をあけて入ってこようとしたが、中にむさ苦しいおじさんが座っているのを見て、そのまま戸を閉めて帰ってしまったとか。
それでも座り続けていたら、少しずつ人が来るようになって、そのうちたくさん人が集まるようになった。
それが現在の「NABA」(摂食障害の自助・ピアサポートグループ)の発祥だという。
それを聞いて、「そうか。自分がそういう場を作りたいということが重要なのであって、誰も来なくてもただ座り続けて待っていれば、自分と同じようにその場を必要としている人が助かるのだ」と思った。
そう思ったらすごく気持ちが楽になって、そういうグループも一切やったことがなかったし、知識はまったくなかったけど、とにかくやってみようと思った。
助言や批判や否定のシェアが嫌いだったので、言いっ放し・聞きっぱなしの当事者グループのスタイルを借りようと思った。
そうすれば主催者も参加者も対等であり、気負わなくても気軽に場が作れると思った。
まずやったことは、自分が作りたい「場」の名前をつけて、会場を借りて、チラシを作ること。
名前は「生きにくい人のための自助グループ」とした。
会場は公的施設を借りられるということがわかり、地域の交流センターなどに登録をした。
そしてA4のチラシを作ったわけだが、これが思いのほか、手間取った。
自分はコピーライターだったからA4のチラシくらいお手のもののはずなんだが。
コピーライターやフリーライターをやるときには既にあるものを依頼されてこぎれいに文章にすればいいだけだが、今回はそうじゃない。
そもそも、自分が作る「場」だ。
どんな場を作りたいか、どうしてこの場を生み出したいのか、そもそもそれがなければ告知文など書けない。
文章を書こうと思うと、不安が出てくる。
ものすごく怖い。
経験値も知識もまったくない。
自分にできるのか。
そもそも人は来るのか?(誰も来なくても座って待っていようと思ったくせに、不安になる。)
振り返ってみると、私はその時まで主体的に何かをやったことがなかったということに思い当たる。
学校、就職、フリーランスときたけれど、世の中のありがちなレールに乗って、その中で優秀になるべくして動いていただけで、自分に主体性はなかった。
フリーとはいえ、依頼があって、それをやるという感じで。
誰からも求められていないのに、誰も来ないかもしれないのに、金になるわけでもないのに、一体やる意味があるのだろうかと、もんもんとする日々が続いた。
が、誰かのためにやるのではなく、まず自分自身がこの場を必要としているから、自分のためにやるのだ。
誰も来なくてもいいじゃないか、誰か来てくれたらその人と相談しながら進めればいい。
そう居直って、やっとA4のチラシが書けた。
それをパソコンとつないだプリンターで何十枚も印刷し、地域の女性センターだとかチラシを置いてくれそうなところに持って行った。
そして…
そして…
チラシを見たという一人の方から、連絡があったのだ!
最初はその方と私と二人だけの「場」がスタートした。
いやー、こわかったねー。
そもそも人間関係があまり得意ではなかった私が、チラシだけ見てきた、見ず知らずの人とふたりっきり。
冷や汗が出ていましたよ。
でも、その場を続けているうちに、さらに何人かの方から連絡があり、数人の人が固定メンバーとして来てくれるようになった。
自分がやっているのではなく、その人たちがやってくれていると思ったら続けられた。
そのうち、参加者の一人の方が味噌作りが得意だとわかって、その方に講師になってもらって味噌作りワークショップを企画した。
地域の調理室を借りて、市の広報に載せてもらって、満席の中での開催。
これはよかったなぁ。
自分は被害者や犠牲者だと思っていた当事者の方が、講師になり、主役になり、自分には力があるということを思い出すプロセスを見せてもらった。
ピカピカと輝いていた。
そうこうしているうちに、場づくりがどんどん楽しくなっていった。
そして今に至っているのです。
一番こわかったのは、最初の一歩を踏み出すときだけ。
あとは、来てくれた人やつながりの中で広がっていった、そんな感じなのです。
自分がやると思うと場を自分が仕切る人になってしまうけれども、来てくれた人が主役の場だと思うと、自分も楽だし、参加してくれる人もそのほうが楽しいということが回を重ねるたびごとにますますわかっていったという感じです。
自分で場を作るようになってから、勉強のために自分自身もありとあらゆる場に参加してみました。
その時に感じた様々な違和感が今の自分の「場」を作っているというか。
参加者を無視した場とか、スタッフや常連がつるんでいて輪に入れない場とか、権威的な人がいてみんながその人のことしか見ていない場とか、そういう場がほんと嫌だったので、自分はそうじゃない場を作りたいと。
来てくれる人が一人残らずここには自分の居場所があるという場を作りたい。
それは、自分がそういう場を必要としていたからなんですね。
なので、自分ができることを自分にできるやり方で、まず一歩踏み出す。
そのときにウソをついてもバレるから、自分も初めて場を作るから怖くて仕方ないとか、デスカフェ だったら自分は僧侶だけど自分も死のことを何も知らないとか、それをさらすところから始めたらいいのではないかというのが、自分の経験から来る実感です。
等身大のその人がいるからこそ、場に安心感が生まれるというか。
そのことで、参加者の方も、自分も自分のままでいていいと思えるというか。
自分も色々な場に行くようになって、自分の生活範囲の中では絶対に出会えなかった人やつながりができて、本当に生きるのがラクになったし、楽しくなったし、豊かになったと思っています。
そして、お寺こそは地域のコミュニティの中心になりうる場所です。
どんな人でも生まれていつか死ぬ。
生と死は万人に平等な営みであり、お寺はそれを語れる場だと感じています。
私もデスカフェ とかやりましたが、私のような俗物がやるより、ブッダを背負っているお坊さんが場を作る方が圧倒的に結界をはれると思うのです。
そのような場を若き僧侶の方々がどんどん開いていってくださるのを楽しみにしております。
違和感
なんだろうな。
facebookとか見ているて、5人~数十人で楽しそうに写真写っている記事がいっぱい載っているじゃない。
私にはあれが信じられなくてね。
つい、数年前まで私にはそういう友達が一切いなかったし、ほしいとも思わなかった。
人と付き合って意味のないことを話している時間が無駄だとしか思えなかった。
それなのに、自分が孤独で他者を必要としているということに気づいたのは、父が死んだ9年前。
葬儀の父を見て、もし自分が死んだら一体誰が弔いに来てくれるのだろうと思った。
それから、人を、仲間を、コミュニティを求めて色々な場に出向いた。
(いま、振り返ってみたら、そんなことをやったのはこの時が初めてだ)
どういう場所に行っていいかよくわからなくて、自分が関心のある市民運動だとか社会運動的な場を探して赴いた。
探してみると、そういう場って結構あるんだね、自分が知らなかっただけで。
しかも、参加費も無料とか、格安。
なかには、終了後に懇親会と称して飲み会を設定してあるところがあり、そういう場を探してはよく出かけたなぁ。
でも、むなしかった。
目の前の人と話していても、相手も私の話なんか本当に聞いてないし、興味もないし、私も同様。
そのうち、そうじゃない場やつながりを作りたくて、自分でも場づくりやファシリテーションを勉強して、自分でも場づくりを始めた。
コンセプトは、私の場に来た人は、ひとり残らず、ここには自分の居場所があると思って、帰ってもらうこと。
思えば、いま私のつくる場では、きゃぴきゃぴした集合写真など撮ったことがないなー。
でも、たぶん、私の場に来た人は、他では感じないつながりを感じてくれているはずだという自負はある。
たまたま今日、とある集まりに参加して、50人くらいの人が集まった懇親会に参加したけど、話したのは目の前に座った数人。
おいおい、席替えやファシリテーションしてくれよ。
しかし、こういう場がほとんどなんだろうな。
それなのに、楽しそうな風を装って集合写真を撮る。
それが当たり前だと思っている。
私は違和感を感じて違う場を求め、ないなら自分で作ろうとした。
目の前にあるものに感じる違和感は大切だ。
おおもとの苦しさ
今はよくわかる。
夢がない、生きる意味がわからないというのが、私のおおもとの苦しさだった。
目的がないと人は空虚になる
きょう、押入れの中に着ていない服が幾つもあるのを見て、あー、自分は本当に空虚だったんだなぁと思った。
私は長い間、生きる意味がわからなかった。
生きる意味がわからない。
つまり、目的がないのだ。
目的がないと人は空虚になる。
たとえば、コピーライターやプロデューサーになって小金を稼げるようになっても、その金を使って何をしたいかがわからない。
思いつくのは飲みにいくくらいで。
だから、それから海外旅行に行ったり、スキューバダイビングをしたりするようになった。
お金を稼ぐために、生活のために働くが、そのお金を使って何をやっていいかわからない。
なんのために生きているのかわからない。
消費をするために、お金を使うために、働き続ける。
でもそこに目的はない。
それを考えるのがいやで、考えないように逃避的に酒を飲んだり遊んだりする。
そういう人って多いのではないだろうか。
私はこういう生き方を受益者としての生き方と呼んでいる。
目的がなく、与えられた枠組みの中で、その枠組みから利益を受け取って生きる生き方。
そこには主体性がない。
その枠組みの中で優劣を競い合ったり、競争したりしている。
原動力は不安。不安を解消するために安定を求めて生きている。
その人たちは、自分の人生や運命の責任をすべて外側に置き、他者や社会に対する不平・不満・愚痴のなかで生きている。
一方、創造者としての生き方がある。
それは枠組みから出る生き方だ。
前者が、起きた出来事にただただ反応して、快適さを求めて生きる生き方だとしたら、
創造者として生きる生き方は、まず目的ありき、まずミッションありきというか。
自分がこの世界や自分の人生を創造できるとして、そこから何ができるかを考える。
起きていること、今あることに反応して生きる生き方から、
自分が創造していきたい世界や社会や人生を見据えながら、そこから今できることをやる生き方。
この両者は、見た目は同じことをしているにみえても、意図がまったく違うのだ。
意図がない生き方は、糸が切れた風船みたいにただ漂い、場当たり的に生きているだけだ。
でも、そうやって生きる生き方しか知らなかった。
そして今ようやく創造者として生きることを始めていて、過去の受益者としえの自分を思い出すと、あぁあれじゃあ苦しくって当たり前だったよなぁとしみじみ思っている。
やることより、やらないことのほうが難しい。
やることより、やらないことのほうが難しい。
相手の力を信じて、ただ聴くとか、ただ見守るとかができないような気がする。
相手を承認するような、相手を励ますような、余計な一言をついつい言ってしまう。
そして、それがいいこと、正しいことだと多くの人が思い込んでいる場合が多い。
が、おうおうにして、そういう場合、相手をちゃんと聞いてないし、見てないのではないだろうか。
この場合はこうしたほうがいい、こうふるまうべきだという自分が知っている正しい解答に沿ってマニュアル的に振る舞い、ただ反応しているだけで…。
もし、丁寧に相手を見ようとしたら、そんなに反応的にすぐには言葉は出てこない…。
そういう反応に、置き去りにされている、なんだかわからない不快感をかんじるものの、相手が好意で言っているのだからと、その不快感にフタをする。
そういうことって多いような気がする。
昔は私もフタをする派だったけど、今は感じたそのままを率直に伝えるようになった。
追記1
だから円座やミニカンでは、相手の言葉を丁寧にたどるだけで、自分の主観に基づいたことは一切言わないんだなー、そしてそれだけで相手は勝手に自分の力を思い出していくんだなー、と、そのことを改めて理解した。
追記2
多くの人は、自分が何もしないことの罪悪感、無力感への恐れから余計な一言を言ってしまう。
それは自分がいい人になりたいというみずからのエゴから発せられた言葉であり、相手を真に思って出た言葉ではない。
どこにフォーカスを向けているか
どこにフォーカスを向けるかは大事だと思う。悪いところにフォーカスするか、いいところにフォーカスするか。
多くの人は悪いところにばかりフォーカスする(私も)。
特に自分のことを始終ダメだししている人は多い。
また寝る前にも、今日はここがダメだった、またこれができなかった、あんなことを言っちゃった、と反省している人が多い。(私のことです。苦笑)
これはなんなんだろう。
日本人の傾向?
教育?
私は家庭環境がそうだったんだけど。
悪いことにフォーカスしている人生と、
いいことにフォーカスしている人生。
どっちが幸せかは明らかですねー。
そんな簡単なことに気づかず、多くの人がそうやって生きているのがもったいない。
でも、これも習慣だから、なかなか変えられない。(私も)
なので、私が始めたことは、
Twitterとインスタグラムを使って、この世界や人の美しいところやステキなところを毎日投稿すること。
また、Twitterでは、寝る前に毎日自分を褒める投稿をすること。
さらに、いま断捨離しているから、その経過もTwitterに投稿して、やれたら自分をほめること。
どうなるか、乞うご期待。
「なないろのあめ」
@nanairo_ame
インスタグラムは
nanaironoame
自分が場を作る意味
講演会みたいなところに参加して、誰かの話を受け身で聞いて、誰とも話さずに帰っても、そんな場はほとんど意味がないと私は思っている。
今はネットでどんな情報でも得られ、さまざまな動画も見ることができるのだから、ただ受け身で聞いているだけの場ではほとんど意味がないんじゃないかと。
でも、つながったり質問できたらいいというわけでもないというか。
そこには依然として、知識を与えるものと、知識を受け取るものの、ヒエラルキーがあるままで。
そこでは、主体的に関わることも、自分が一人称になって自分ごととして考えることも、発言することも奪われている。
だからこその、対話なのだ。
登壇者と参加者に差はない。
知識のあるなしは問題ない。
お勉強じゃないのだから。
枠組みを超えて、本音レベルで感じていることや、考えていることが、対等にやりとりされなければ意味がない。
しかし、ほとんどの人はそんな場を経験したことがない。
先生の方がえらくて、正しくて、なるべくその正解に沿ったことを言おうとする。
そのうちに、自分が何を考えているのかも、何を感じているかもわからなくなる。
思考停止。
それをどう壊すかを考えつつ、自分はいつも場を作っている。
そのために一番、絶対に大事なのは、自分が権威にならないこと。
どれだけ、いいかげんに、人間くさくあるかが勝負だ。
立派なファシリテーターになって、みんなに尊敬されたらおしまいなのだ。
怒りっぽい、そのままの自分をなるべくさらす。
そうした時に初めてみんな、こんな程度でいいなら自分でも場を仕切れるよ、むしろ自分の方がうまいよと思って、自分の力を思いだす。
自分的には、立派な人をやるより、いいかげんな人をやる方が難しいと思っているが。
また、登壇者の方のことも、あげすぎない。
というか、時々、ちゃちゃを入れて、価値を下げる。
その方の意見だけに収斂される場になったら、危ないったら、ありゃしない。
また、いろんな立場の人や、専門職や、当事者が、平場で出会い、対等に、対話する場もしかけるが、これまた専門家だけが正しい答えを知っている構造を壊そうとする意図がある。
しかし、そういう考え方に不慣れな人にとっては、私がやっていることが全く意味不明らしいということに、最近ようやく気づいてきた。苦笑
なので、自分が何を考え、どういう意図からこのような場を作っているのかということも、ちゃんと発信していこうと、今さらながらに思っている今日この頃。
あと、コミュニティやネットワークを作るなら、こういう対話などしないで、お茶会や懇親会を作った方がいいのではないかという意見も聞くが、それは難しいと私は思っている。
自分の本音や自分の意見を言った経験のない人がそういう場に参加しても、世間話や一般論しかできないし、そんな会話をしていても目の前に人がいないのと同じじゃないかと私は思ってしまう。
おうおうにしてそういう場は、声の大きい人が支配していたり、ちょっと仲のいい人だけが楽しそうにしていて孤立する人がでたり、既存のヒエラルキーや派閥的な馴れ合いが生じ、少しも本音が語られない。
そんな場が私は大嫌いだ。
こういう場にファシリテーターマインドを持った人が、ひとりいるだけでも場が変わってくる。
でも、ファシリテーター的な人も仕事以外ではやらなかったりするんだけど。
こういうのも、ありとあらゆる場に参加して、自分が嫌な思いをいっぱいして、自分の言葉をちゃんと聞いてもらわない経験があるからそう思うのかもしれない。
が、いずれにしろ、自分が何を考え、なぜこういう場を作っているのか、きちんと言語化しないと伝わらない。
自分が情報発信しないでいて、理解してもらえないと言っているのは単なる自分の怠慢にすぎないのだから、少しずつ、考えていることを言葉にしていこうと思う。