読書会のお知らせ
10月から2か月に一回のペースで、本を読んで生や死について考える読書会を始めます。
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読書会のお知らせ
日時:10月12日(金)19時〜21時
場所:文京区男女平等センター会議室
https://www.bunkyo-danjo.jp/access.aspx
参加費:施設使用料1400円を参加者でワリカン
読む本:田口ランディ『逆さに吊るされた男』
主催:「死を考え学ぶ会」読書部
申込:shimanabukai@gmail.com
生や死について、本を読む読書会を始めます。
10月から2か月に一回のペースで本を読んでいきます。
本は事前に読んできて、当日は参加者でまず各々感想や感じたことを述べた後に、フリートークするというスタイルです。
少々、読むのが重そうな本、読んだ後に誰かと何かを話したくなるような本をあえて選んで読んでいきます。 生や死についてじっくり考えざるをえないような本を選び、それについてみんなで話します。
とはいうものの、そんなに堅苦しく考えないでください。 本に触発されて自分の話をただ語るのでもOKです。
この読書会は、連続して参加してくださる方が来てほしいなぁとも思っております。
以前、森川すいめいさんの『その島のひとたちは、ひとの話をきかない』という本を、毎月1章ずつ読んでいく読書会をやったことがあります。
そもそもなんの共通点もなかった参加者どうしが、本に触発されて自分が感じたことを語り、それを聴き合っているうちに、人ってこんな風に感じることが違うんだ、そしてこうやって語っている背後にはこんな思いがあったのか、みたいなことが少しずつわかっていって、参加者同士の間に静かで優しい共感やつながりが生まれていったのを経験しました。
本を触媒にして、ていねいに話を聞き合い、ゆっくりと焦らずに関係性を紡いでいきたい、そんな思いが根底にはあります。
今後は、森達也さんの『死刑』や、末井昭さんの『自殺』などを読んでみたいなと思っています。
終了後は最寄りのお店で酒を飲みながら、話の続きをする予定です。
お待ちしております。
追記
この場は気遣いなど不要な場にしたいので、差し入れは禁止です。
自分で飲みたいもの・食べたいものは、各自それぞれ持参で。
唯一無二の豊かさを生きている
facebookに書いた投稿を転載。
やっと「カメラを止めるな!」を観ることができた。前評判がよすぎて、期待しすぎて、イマイチ感強し。
やっぱり映画は予備知識なく期待しないで観たほうが楽しめる。
それから、今日は篠さんの気質の講座へ。
篠さんの講座に出るのは2回目。
篠さんの講座に出ると、なんか、いつも泣きたくなっちゃうんだナ。
今日は、参加者全員がそれぞれ各自心の中で10数えて、数え終わった人から手をあげるというのをやった。(これ、前もやったなーと思いだした)
10数える速度が人によって全然違うということを体験するというワークなんだけど、前やった時もそうだったけど、私の数える速度が一番遅かった。
ほんとはもっとゆっくり数えていたいくらいだったけど、みんなを待たせてはいけないと思って、早めに数えたつもりだったんだけど、それでも参加者の中で私が一番遅かった。
自分のペースでゆっくり数えたい、急がされなくないと思っている自分がいる。
でも参加者の中で一番早く数えた人は、私がなんでそんなにゆっくり数えているかわからないし、待ってられないのだという。
だから、実際にこうやっていろんな人がいることを理解して共存しあうのが大事だと。
それを聞いて、そこでなんだか泣きたくなった。
私は自分のペースや考えていることや感じていることを否定し、人並にならなきゃいけないと思い、自分を矯正して生きようとしていた過去があったことを思い出した。
(とある恩師との出会いにより、ある時から自分に居直って生きるようになったんだけど)
で、そんな資質を持った自分が、ここまで人並以上に(笑)なったってことは、もう自分的には十分じゃないか?
ほんと、よくやってきたよ、自分。
っていうか、そんな自分のペースや自分の感性が今は嫌いじゃなくて、大好きで、それをもっと取り戻したいと思っている。
多くの人は自分の感じ方や在り方やペースこそが正しいと思い、そこから人を見る。
だけどそこから見ている限り、他者のことは理解できない。
社会でよしとされる資質(それは社会にとって都合がいいということだけだけど)以外の資質を持っている場合、自分でも自分を否定し、本当の自分がわからなくなることがある。
いろんな人がいて、そこに優劣はなく、それぞれが唯一無二の豊かさを持っているのに、いつかそれを忘れてしまう。
でも、自分本来の資質を今更ながらに思い出さされ、それがそのまま肯定されると、なんだか泣きたくなってしまうのだ。
道元の言葉と、平安の祈り
がんばるのをやめて、遊ぶこと
先週の土日にキャンプに参加させてもらった篠さんのブログをリンクしました。
いやー、楽しかった!
キャンプで朝ごはんを食べていたら、子ども達が太鼓を叩いて遊び始めて、そうしたら篠さんが朝ごはんをその場で放り投げて子ども達のところに走って行って、率先して一緒に太鼓を叩き始めたのには笑ってしまった。
私も負けてはいられないと思って、乱入して太鼓を叩いた。
そうしたら、三歳の子も小学生も大人もみんなが集まってきて、勝手にドラムや打楽器のセッションが始まった!
面白かったなー。敷きっぱなしの布団の上で、朝ごはんほっぽり投げて、みんな好き勝手に打楽器鳴らしたり、踊ったり、声出したりしてる。
ほかの場ではお行儀が悪いと否定されることも、ここでは否定されない。
むしろ、子供が突発的にやったことに対して、それに乗って、オトナも楽しんじゃおうという姿勢。
そういう経験をしているかどうかで、オトナになってからの在り方が変わってくるような気がする。
こういう経験のある子どもは、自分の感覚を否定しないで、自分の感覚を信じることができるのではないか。
篠さんは、このキャンプは誰も命令や司令をしない場だという。
遊びたかったら遊べばいいし、料理を作りたければ作ればいいし、寝たかったら寝ていればいい。
みんなが遊んでいて、ご飯がなかったらただそれだけのことでたいしたことではない、と。
(でも、晩御飯はみんなが勝手に炭をおこして各自作ったご飯がならんで、それをみんなで分けて、食べ切れなかったほどだったけど!)
これ、先日うかがった藤田一照さんの話と非常に共通していることに、びっくりした。
一照さんはこう言う。
仏陀は、苦行や、型があって外側に正解を求める修行方法に疑問を抱いて、それこそが苦しみの源だとして、そのパラダイムの外に出たのだ、と。
頑張ることや努力することをやめて、無になろうと努力するのをやめて、何かを追いかけるのをやめて、今起きていることをそのまま迎えいれること。
自我を使って、自他を分けて、自分だけをなんとかしようとするのではなく、自分を開いていく。
自分をコントロールするのをやめて、ただ、今にくつろぐ。
エンジョイすること。
遊ぶこと。
その中に、その瞬間に、すべての事象にあらゆるものに、神は遍満(浸透)している。
いい人をやめる
今日思ったこと。
「いい人」をやめたら、ほとんどの問題が解決する。
嫌われてもいいと思ったら、なんでもできる。
(人を傷つけるということでなく、相手の期待や枠組みで生きるのをやめるということ)
「いい人」でありたいという思いが、逆に人を裁き、また本音を言わないというコミュニケーション不全をもたらしている。
初・毒舌
「良いとか悪いとか、快・不快などのどちらかに振り分けようとするその考え・感覚から「解き放たれる」のが解放だとお考えください。 」ということを、私の教師的な立場の人が書いていて、イエスと思った。
市民運動系の人はしばしば、善悪の絶対的な価値観を持っており、そのことに疑問も抱かず、自分と異なる立場の人には共感もせず、それを正しいと信じ込み、でも自分は善なる人だと信じ込んでいる。
これほどの暴力性はないのだが…。
助けること、人のための何かをすることがいいことだと思い込んでいる人も怖いなと思う。
それは本当に相手のためなのではなく、自分の表現としてやっていると、ある人が言っていたが、それにもイエス!
あと、ヒーラーなどを名乗っている人は、愛だとか感謝だとか光だとかそういう言葉をしばしば陶酔的に語っているが、そういう二元論的な考え方こそが、全くヒーリング的ではないと感じる。
久しぶりの毒舌。
っていうか、このブログでは、初毒舌?
かけられた魔法を解くために
まとまった継続した記事を書いている時間がなかなか取れないのだけれども、思いついたことを少しずつでも書いていきたいと思う。
さっき、ふと、思い出したこと。
私は長い間、ずっと、自分は幸せになってはいけないと思っていた。
そもそも、幸せとはいったいどんな状態なのかも想像がつかなかったし。(この点は、いまでもはっきりとわかっているとは言えない。苦笑)
幸せになってはいけないと思っている人間が、幸せになれるわけがない。
だからまず、自分は幸せになってもいいのだと、自分に許可を与えることが最初の一歩なのだと思う。
これができていない人、結構、多いんじゃないのかな。
「幸せになってはいけない」
なんでそう思ったかというと、いつも思っていたのは、世界の裏側には貧困も飢餓もあるのに、自分だけ幸せになってはならないという思いだった。
いま思うと、私が幸せだろうが不幸だろうが、貧困や飢餓に1ミリも影響を与えないわけだが(苦笑)、自分だけ楽しそうにしていてはいけないと思ったのだ。
そう思った背景には、やはり、生育歴における刷り込みがあったと思う。
私は、両親からしばしば「親の苦労がわからない」とか「遊んでばかりいてはダメだ」とか「変わっている子だ」とか、そんな言葉を日常茶飯事に投げかけられていた。
また、母親はしばしばため息をつきながら「歳をとると何一ついいことがない」と言っていた。
そのうち、自分の存在自体が、親を不幸にしていると思うようになったのだと思う。
自分は親を不幸にしている人間だ。
親の期待には応えられない。(だけど親の期待に応えていたら本当の自分を殺すことになる)
いずれにしても、親を不幸にしている自分は、幸せになってはいけない。
こんな風に理路整然と考えてはいなかったけれど、こういう刷り込みが潜在意識というか、無意識下に刷り込まれたのではないだろうか。
これは「呪い」だと思う。
言葉は人に呪いをかける。
その呪いとの格闘こそが、自分の生きにくさとの格闘だったとも言える。
そして、そのうち私は本当に魔法を習った。
セラピーだとかコーチングだとか瞑想だとか、呪いを解く魔法を。
それについて少しずつ丁寧に書いていきたいんだけど、もったいつけてるみたいでごめんねー。
少しずつ書いていきます。
みどりんという本当の魔法使いから「魔法」も習ったんだけど(笑)、そのお話もまた後ほど。